NHK大河ドラマ「篤姫」

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篤姫のエピソード

嘉永7年(1854年)11月に、既に大石寺に帰依していた南部八戸藩主南部信順(島津氏出身)の強い勧めにより、養父・島津斉彬と共に現在の日蓮正宗総本山大石寺に帰依し、同塔中遠信坊再々興に貢献した。また家定の死後には、万延元年3月15日~4月5日(1860年4月5日~5月25日)までの51日間、大石寺法主・日英 (富士門流)をして1日12時間(4時間×3回)の唱題祈念を行っている。

愛犬家であり、結婚前には狆を多数飼っていた。しかし、夫・家定が大の犬嫌いだったために大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。その猫を世話をしていたのは、天璋院と共に大奥を統轄していた御年寄・瀧山の姪・大岡ませ子である。

天璋院(篤姫)の生涯

鹿児島城下に生まれる。嘉永6年(1853年)、薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、同年鹿児島から江戸藩邸に入る。従兄斉彬の養女となったのは、将軍家への輿入れを想定に入れたものであった。それ以前から大奥より島津家に対して縁組みの持ちかけがあった。大奥の目的は、島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。当時の将軍・徳川家定の正室は次々と夭死しており、家定自身も病弱で、子供は一人もいなかった。

一方、篤子は斉彬から政治的使命を帯びて江戸城へ送り込まれたとされる。斉彬は将軍後継問題を巡り、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派と、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派に分かれて対立する幕閣において、慶喜の将軍後継を実現させるために篤子を徳川家へ輿入れさせた。但し、藩主の実子であった広大院に対し、篤姫自身は島津家の分家の出身であり、一橋派大名からも「あまりにも御台所としては身分が低すぎる」と言う懸念の声があった。

安政3年(1856年)、篤姫は右大臣近衛忠煕の養女となり、その年の11月には家定の正室として大奥へ入る。しかし、同5年(1858年)7月には斉彬、8月には家定が急死し、14代将軍には徳川家茂が就任することとなり、篤子は使命を果たすことが出来なかった。家定の死により篤子は落飾し、以後「天璋院」と名乗る。

幕府は公武合体政策を進め、文久2年(1862年)には朝廷より家茂正室として皇女和宮が大奥へ入る事が決定される。薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出るが、天璋院は帰国を拒否している。また、輿入れした当初の和宮と天璋院は一種の「嫁姑」の関係にあり、更に皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあって不仲であったが、後に和解したとされる。

勝海舟の談話などから、自らが擁立する予定だった15代将軍・徳川慶喜とは険悪な仲であったとされ、慶応2年(1866年)には慶喜の大奥改革に、家茂が死去して「静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に抵抗する。一方、慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅してから江戸城の無血開城に至る中、自らの実家に当たる島津家に嘆願し、朝廷に嘆願した和宮と共に徳川家救済や慶喜の助命にも尽力したとされる。

晩年は田安亀之助こと徳川宗家16代家達の養育に心を砕いた。明治期は徳川家からの援助で過ごし、明治16年(1883年)に東京の一橋邸で死去、享年48。東京都台東区上野の寛永寺に、夫・家定の墓と並べて埋葬された。自分の所持金を切り詰めてでも元大奥の下々の者の就職や縁組に奔走し、金を恵んでいたため、死に際してその所持金はたった3円(現代の6万円)しかなかったという。

天璋院

天璋院(てんしょういん・島津篤子→近衛敬子、天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)篤姫(あつひめ)は、江戸時代後期から明治の女性で、江戸幕府13代将軍徳川家定の御台所(正室、継室)である。実父は、薩摩国(鹿児島県)藩主島津家の一門・今和泉領主島津忠剛。幼名、一(かつ)。島津斉彬の養女になり篤子(あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には敬子(すみこ)と名を改めた。